深 川 逍 遥

清 洲 橋 ( 芭蕉庵史跡展望庭園より )

 芭蕉庵史跡展望庭園  ( 東京都江東区常磐一丁目 )

 今から320年ほど前、松尾芭蕉はそれまで住んでいた日本橋小田原町(現・中央区日本橋室町)から深川(現・常盤)に転居しました。当時から深川は江戸市中や富士山が一望できる芸術性の高い場所でした。事実、芭蕉だけでなく葛飾北斎や歌川広重の浮世絵にも深川から江戸市中を望む絵があります。通説では、「わび」「さぴ」を重んじる独自の作風の確立のため、深川に転居したとされています。

 芭蕉記念館の学芸員、横浜文孝さんは、芭蕉が深川に転居した年に日本橋で大火があったことに注目し、「被災移住説」を立てました。この説によると大火で焼け出された芭蕉は一時的に深川に移り、環境が気に入り定住し、独自の作風を確立したというものです。


 松尾芭蕉

 江戸前期の俳人。名は宗房。号は「はせを」と自署。別号、桃青・泊船堂・釣月庵・風羅坊など。伊賀上野に生れ、藤堂良精の子良忠(俳号、蝉吟)の近習となり、俳諧に志した。一時京都にあり北村季吟にも師事、のち江戸に下り水道工事などに従事したが、やがて深川の芭蕉庵に移り、談林の俳風を超えて俳諧に高い文芸性を賦与し、蕉風を創始。その間各地を旅して多くの名句と紀行文を残し、難波の旅舎に没。句は「俳諧七部集」などに結集、主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」などがある。(1644〜1694)


 
臨川寺  ( 東京都江東区清澄三丁目 )


 大川端  ( 隅田川遊歩道 )


紀国屋文左衛門の碑  ( 東京都江東区三好一丁目 )

江戸中期の豪商。姓は五十嵐。紀伊の人。材木商として江戸の大火に木曾の木材を買い占め、数年で巨万の財を積み、豪遊して紀文大尽と称せられた。(―〜1734)


間宮林蔵の墓  ( 東京都江東区平野 )

江戸後期の探検家、幕府隠密。名は倫宗(トモムネ)。常陸の人。伊能忠敬に測量を学び、幕命によって北樺太を探検。1809年(文化6)、後の間宮海峡を発見。28年(文政11)シーボルト事件を幕府に密告。著「東韃紀行」。(1775〜1844)


 雲光院  ( 東京都江東区三好二丁目 )

 阿茶局は徳川家康の側室。武田氏の臣飯田筑後守の娘で今川氏の臣神尾孫兵衛忠重の妻となりましたが、天正16年(1588)忠重と死別、翌年家康に仕えました。天性聡明、才略にたけていたため、家康の寵愛を受け、しばしば陣中に従いました。
 慶長19年(1614)大阪の役には、家康の使者となり大阪城で淀君と和議の交渉にあたり冬の陣の終息に協力しました。元和2年(1616)家康の没後、竹橋(千代田区)に邸宅を与えられ300石を受けました。
 元和6年(1620)将軍秀忠の娘和子が入内するとき母代わりとして上京、皇女隆誕の際には、女御和子に侍しました。その功績により、後水尾天皇から、従一位に叙せられ、以後神尾一位殿と称せられました。
 寛永9年(1632)秀忠死去、翌年、剃髪して雲光院と号しました。


 八幡橋  ( 東京都江東区富岡一丁目 )

 八幡橋は、明治11年東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作した長さ15.2m、有効幅員2mの単径間アーチ形式の鉄橋である。もと京橋楓川(中央区)にかけられ弾正橋と称したが、大正2年市区改正事業により新しい弾正橋がかけられたので、元弾正橋と改称した。
 大正12年関東大震災後の帝都復興計画により、元弾正橋は廃橋となり、東京市は、昭和4年5月現在地に移して保存し、富岡八幡宮の東隣りであるので八幡橋と称した。アーチを鋳鉄製とし、引張材は錬鉄製の鋳錬混合の橋でありかつ独特な構造手法で施工してある。この橋は鋳鉄橋から錬鉄橋にいたる過度期の鉄橋として近代橋架技術史上価値の高い橋である。(重要文化財)
 


 永代橋

 元禄11年(1698)、幕府の命によって「深川の渡し」にかわる木橋が架けられた。永代橋の歴史はここに始まる。享保4年(1719)大破の折りには一旦廃橋と決められたものの、両岸住民の熱意がみのって民間維持の橋として再建し、以後、公用橋となって文明開化の時代をむかえる。明治30年(1897)鉄橋に姿を改めた永代橋は、もとの橋から約150m下流の現在の位置に移り、関東大震災により大破、今の橋は詩人として知られた木下杢太郎の兄太田円三の設計、大正15年(1926)完成したものである。

 東岸永代島から下流をとらえたのが左の絵である。
 


 東京都現代美術館  ( 東京都江東区三好四丁目 )


 深川江戸資料館  ( 東京都江東区白河一丁目 )


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